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湊町の蕎麦屋のオヤジは獣医さん(その4)


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だまされて来た嫁・姑連合軍
森安の本家は、対岸の新保地区で染物業を
営む旧家だった。
その分家が三国で麻を商っ
ていたが、男の子がなく、娘のブンに九谷焼
の職人だった竹松を婿に迎えた。
夫婦は蕎麦屋を開いた。それが明治三十年代のこと。 竹松は筆まめな人で、いまも残る当時の大福帳には、出前の記録が克明に書かれている。
その几帳面さはいまも康作さんに引き継がれている。ただしこちらは大福帳ではない。「これでお客の傾向がズバリ分かります」と、四代目は帳場のパソコンをたたいてみせた。
竹松夫妻にも子どもがなく、故郷の石川県から姪のキワを呼んで養女とし、婿を迎えた。
それが作太郎。一男さんの父親である。
五男二女の長男だった一男さんは、店はだれかが継ぐだろうと、岐阜の高等農林(現岐阜大)を出て獣医となり、岐阜県に勤めた。
だが、イザとなると店を継ぐ者がない。結局、三十歳のとき、岐阜県庁を辞めて店に入つた。お役人の娘だった女房を納得させるのに苦労しましたと、息子と同じことをいう。
その美佐保夫人は上品なおばあちゃまだ。 「ここに来たとき、家族は十三人。夫婦で見よう見まね、仕事を覚えました」
近在の農家には牛が多かったが、獣医が足りなかった。ぜひにと頼まれて、一男さんは翌年、獣医を開業した。
その直後、元気だった父の作太郎さんが六十歳で急死した。
朝、蕎麦を仕込んで農家回りに出る。結局、店の仕事は美佐保さんに押しっけられた。
二代つづいて、"だまされて”蕎麦屋のカミさんになつた嫁・姑は仲がいい。 「息子夫婦が帰った翌年、財布は嫁さんに渡しました。
いまはお小遣いをいただく身分」と、美佐保さんはいう。 「その小遣いは獣医さんから?」と聞いたら、「いいえエ、蕎麦屋のほうですよ」と笑った。
暢気な蕎麦屋に思わず長居した。暗くなった街に出ると、丘の上の「龍翔館」が美しい照明に浮き上がって見えた。 |
日本麺類業団体連合会発行
めん 1992年11月号
作:富永政美様
より抜粋 |
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